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東京地方裁判所 平成5年(ワ)15280号 判決 1999年6月17日

原告 呉溢興 ほか一六名

被告 国

代理人 齊木敏文 岸秀光 菅谷久男 山岡徳光 東村富美子 奥田直竹 川口泰司 小原一人 近藤秀夫 松崎研丈 根原稔

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、

1  原告呉溢興に対し、金四七〇〇万円を、

2  同李森に対し、金四四〇〇万円を、

3  同馬桂英に対し、金五六〇〇万円を、

4  同梁心に対し、金三〇〇〇万円を、

5  同曽元財に対し、金一一九八万円を、

6  同曽徳防に対し、金一〇七四万円を、

7  同錢福注に対し、金一〇三二万円を、

8  同黄玉英に対し、金一〇二〇万円を、

9  同王金池に対し、金一〇六〇万円を、

10  同梁義生に対し、金四二七〇万円を、

11  同陳炳財に対し、金二二〇〇万円を、

12  同鄭蘊奇に対し、金五六一六万六〇〇〇円を、

13  同盧佩英に対し、金三億二一六〇万円を、

14  同崔能に対し、金三四〇〇万円を、

15  同梁海に対し、金一三七五万八〇〇〇円を、

16  同徳明に対し、金三五六〇万円を、

17  同胤楚に対し、金一二〇〇万円を、

各支払え。

第二事案の概要

本件は、第二次世界大戦中に香港を占領した日本軍が、通貨の一種である軍用手票(以下「軍票」という。)を発行し、右軍票と香港ドルとの交換を強制したなどとして、軍票を所持する香港住民である原告らが、被告に対し、合計七億六八六六万四〇〇〇円の支払を請求した事案である。

原告らは、右請求の根拠として、<1>陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(以下「ハーグ陸戦条約」という。)三条に基づく損害賠償、<2>債務不履行に基づく損害賠償、<3>憲法二九条三項に基づく損失補償、<4>民法七〇九条ないし国家賠償法一条一項に基づく損害賠償を主張している。

第三当事者の主張

一  原告らの主張

別紙二記載のとおり。

二  被告の主張

別紙三記載のとおり。

第四前提となる事実

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる(証拠で認定した事実については、各項末尾の括弧内に認定に用いた証拠を表示した。)。

一  ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦規則

1  日本は、明治四〇年(一九〇七年)一〇月一八日、ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦規則に署名し、明治四四年(一九一一年)一一月六日、同条約及び同規則を批准し、同年一二月一三日、同条約及び同規則の批准書を寄託し、明治四五年(一九一二年)一月一三日、同条約及び同規則を公布した。同条約及び同規則は、同年二月一二日、日本について発効した。

2  ハーグ陸戦条約三条には、以下の規定がある。

前記規則(ハーグ陸戦規則)ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ。

3  ハーグ陸戦規則四六条には、以下の規定がある。

家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スヘシ。

私有財産ハ、之ヲ没収スルコトヲ得ス。

二  香港における日本軍の軍政と軍票の発行

1  日本軍による香港の占領及び軍政の開始

(一) 日本政府は、昭和一六年(一九四一年)一二月八日、アメリカ及びイギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争が開始された。

(二) 日本軍は、右同日未明、香港を攻撃した。日本軍は、当時香港を統治していたイギリスの軍隊との間で戦闘となったが、昭和一六年(一九四一年)一二月二五日、イギリス軍は日本軍への降伏文書に調印し、戦闘は終了し、日本軍は、香港を占領した。<証拠略>

(三) 香港を占領した日本軍は、昭和一六年(一九四一年)一二月二九日ころ、軍政庁を設立し、香港における軍政を開始し、翌昭和一七年(一九四二年)一月一九日には、香港に大本営直轄の総督部を設立し、総督部が軍政庁の業務を引き継いだ。その後香港は昭和二〇年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結に至るまで、日本軍の軍政下におかれた。<証拠略>

2  軍票の発行

(一) 軍票は、日中戦争が始まってまもなく、昭和一二年(一九三七年)一〇月二二日の閣議で決定された「軍用手票発行要領」(その後、昭和一三年(一九三八年)九月二三日及び昭和一五年(一九四〇年)九月一〇日に改正された。)に基づいて発行された。同要領を実施するに当たっては、同日付け大蔵大臣通達である「支那事変派遣部隊経費支弁軍用手票取扱手続」及び昭和一六年(一九四一年)一一月一日付け大蔵大臣通達である「南方外貨表示軍票取扱手続」が発せられた。前者の通達に基づく軍票(以下「昭和一二年軍票」という。)は中国で使用され、後者の通達に基づく軍票(以下「昭和一六年軍票」という。)は太平洋戦争に際して発行され、南方諸地域で使用された。

昭和一二年軍票は、甲ないし戊号及びろ号の六種類があり、昭和一二年(一九三七年)一〇月から昭和一八年(一九四三年)三月までの間に、総額七億円余りの昭和一二年軍票が製造された。<証拠略>

(二) 日本軍による占領以前の香港においては、香港ドルと称される銀行券が供給されていたが、香港における軍政を開始した軍政庁は香港において軍票を発行し、昭和一六年(一九四一年)一二月二九日ころ、軍票のほかは香港ドルの流通のみを認めるとともに、交換所を開設して香港ドル二ドル対軍票一円の交換比率で香港ドルを軍票に交換する作業を開始した。当初、香港で使用された軍票は、華南通用の昭和一二年軍票であった。<証拠略>

(三) 当初軍政庁は、軍票と香港ドルとが混合して流通することを認めていたが、総督部は「軍票一色化」と称して、香港における通貨を軍票に統一する施策をとった。

総督部が昭和一七年(一九四二年)五月一五日付けで策定した「香港占領地通貨整理要領」には、軍票一色化の促進及び人口疎散の方針が示されるとともに、香港ドルと軍票との交換比率を二対一とする従前の取扱いを放棄すること、軍関係経費その他送金の支払に努めて軍票を使用し、もって軍票流通面の拡大と普遍化に資すること、香港ドルの価値を下落させるよう誘導すること、没収などによって管理下におかれた香港ドルは管外において物資購入に充当するなどその有効適切な利用を図ること、などが記されている。<証拠略>

(四) 総督部は、昭和一七年(一九四二年)七月二四日、香督令第三二号「香港占領地総督管区内通貨並ニ同交換規定ニ関スル件」を発し、「香港占領地総督管区内通貨並ニ同交換規定」を定めた。右規定には以下のとおりの定めがあった。

(1) 総督管区内においては、軍票と香港ドル以外の通貨の使用を禁止する。

(2) 租税その他総督部に対する納入金または支払金はすべて軍票をもって行う。

(3) 本令に違反したものは軍罰に処する。

また、総督部は、同日、公示第四四号をもって、香港ドル四ドル対軍票一円の交換比率で香港ドルを軍票に交換することとした。<証拠略>

(五) 昭和一八年(一九四三年)四月以降、華中、華南における軍票の新規発行は廃止されたが、香港と海南島については、軍票が継続的に使用された。

総督部は、昭和一八年(一九四三年)五月一〇日、香督令第二六号をもって「香港占領地総督管区内通貨規制」を発し、同年六月一日より香港における軍票以外の通貨の流通を禁止することとした。右規則の要旨は以下のとおりである。

(1) 昭和一八年(一九四三年)六月一日以降は香港ドルの使用を禁止する。

(2) 香港使用軍票以外の通貨を売買または交換の目的とすることを禁止する。

(3) 香港使用軍票の管区外搬出や管区外からの搬入は禁止する。

(4) 香港使用軍票以外の通貨の搬入は禁止する。

(5) 本規定に違反した者は、一五年以下の監禁または五万円以下の過料に処する。

総督部は、同日、公告第一四号「軍票対香貨交換ノ件」を公布し、香港ドルを所持する者は同年五月末日までに香港ドルを軍票と交換すること、軍票と香港ドルの交換比率は一対四とすることなどを定めた。<証拠略>

(六) 香港では、戦局の拡大に伴い、軍需物資の買付けも増大し、物資不足から物価騰貴が顕著となり、軍票の放出も増加した。昭和一八年(一九四三年)四月末ころにはその流通額は一億円と推定されるに至った。そのため、軍票の確保が課題となり、同年後半から翌昭和一九年(一九四四年)中には、華中、華南あるいは内地から香港へ送られた軍票の総額は二億二八〇〇万円以上にも達した。<証拠略>

(七) 総督部は、昭和二〇年(一九四五年)一月八日、香督令第一号を公布し、敵性通貨の所持を禁止し、罰則として一五年以下の監禁または五万円以下の過料に処するものとした。<証拠略>

(八) 日本軍の香港占領後、香港における軍票の発行高は上昇を続け、昭和二〇年(一九四五年)八月の時点では一九億円を超えていた。そのため、香港では急激なインフレが進んだ。例えば、昭和一八年(一九四三年)四月を一〇〇とした食料品価格指数では、同年一二月が二七八、昭和一九年(一九四四年)四月が六五四、同年一二月が三七七七であった。<証拠略>

(九) 香港で流通した軍票は、日本国内で印刷されたもののみならず、現地で印刷されたものもあった。昭和一七年(一九四二年)三月三一日、日本政府は内閣印刷局長達甲第二三号をもって「内閣印刷局処務規程」を改正し、臨時香港工場を設け、総督部の管理の下、軍票の印刷にあたらせた。また、新たに香港華仁行ビル地下に華仁行印刷工場を設け、終戦に至るまで百円軍票の印刷を行った。百円軍票は、昭和一九年(一九四四年)一〇月から流通が開始されたが、終戦時に香港で流通していた軍票のうち一二億円がこの百円軍票であった。<証拠略>

(一〇) 香港で使用された軍票の裏面には、「此票一到即換正面所開日本通貨」(この軍票を所持する者に対していつでも等価で日本通貨に換金する)との記載がある。<証拠略>

三  太平洋戦争の終結と軍票の無効化

1  太平洋戦争の終結

(一) 昭和二〇年(一九四五年)八月一四日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終結した。

(二) イギリス軍は、昭和二〇年(一九四五年)八月末、香港島に上陸し、同年九月一六日、日本軍は降伏文書に調印した。以後、香港はイギリスの統治下におかれることとなった。<証拠略>

(三) 昭和二〇年(一九四五年)八月までの香港における軍票発行高約一九億円のうち約七億円がイギリス軍及び日本軍によって回収、焼却され、残りの約一二億円が未回収となって市中に残ったと推定されている。<証拠略>

2  本件覚書及び大蔵省声明による軍票の無効化

(一) 昭和二〇年(一九四五年)九月二日、日本政府は降伏文書に調印し、同年一〇月二日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が開設された。以後、昭和二七年(一九五二年)四月二八日に平和条約が発効するまで、日本は連合国による間接統治下におかれることとなった。<証拠略>

(二) 連合国最高司令官は、昭和二〇年(一九四五年)九月六日、本件覚書を発した。本件覚書には、以下のような規定がある。<証拠略>

一  日本政府ハ本州、北海道、四国、九州及ビ附近水域ニ於テ左記事項ヲ法律、命令又ハ其ノ他ノ規程トシテ即時実施スベシ。

a  (略)

b  (略)

c  日本政府、陸海軍ノ発行セル一切ノ軍票及ビ占領地通貨ハ無効無価値ニシテ、斯ル通貨ノ授受ハ一切ノ取引ニ於テ禁止ス。

二  (略)

(三) 本件覚書を受けて、日本国大蔵省は、昭和二〇年(一九四五年)九月一六日、大蔵省声明を発した。大蔵省声明には、「日本政府及陸海軍ノ発行セル一切ノ軍票及占領地通貨ハ無効且無価値トシ一切ノ取引ニ於テ之ガ授受ヲ禁止ス」との規定がある。<証拠略>

3 日本の主権の回復

日本は、昭和二六年(一九五一年)九月八日、平和条約に調印した。同条約は、昭和二七年(一九五二年)四月二八日、発効し、日本は主権を回復した。

4 原告らの軍票所持

原告らが所持する軍票のうちで鑑定に供せられたものについては、一部には偽造と認められるものも存するが、その大半は真券である。<証拠略>

第五争点

一  前提となる事実によれば、本件訴訟で原告らが香港において日本軍によって交換を強制されたと主張する軍票は、当時の日本政府が閣議決定に基づき発行したものであること、香港は、太平洋戦争開戦後の昭和一六年(一九四一年)一二月二六日以降太平洋戦争の終了に至るまで日本軍の軍政下におかれ、軍票が使用されたこと、日本軍の軍政下の香港では、当初は香港ドルの使用も認められていたが、「軍票一色化」政策の推進により、香港ドルと軍票の交換が推進され、昭和一八年(一九四三年)六月一日以降は、軍票以外の通貨の使用は罰則をもって全面的に禁止されるに至ったもので、そのような経緯に照らすと、香港における香港ドルと軍票の交換は強制的に行われたものといえること、日本軍の軍政下の香港では、大量の軍票が流通した結果、終戦時には顕著なインフレ状況にあり、軍票の価値が暴落したこと、その後、大蔵省は、連合国最高司令官の本件覚書を受けて、昭和二〇年(一九四五年)九月一六日に大蔵省声明により軍票の無効化を宣言したこと、軍票の裏面には、この軍票を所持する者に対していつでも等価で日本通貨に換金するとの趣旨の記載があることが明らかである。そして、前提となる事実によれば、原告らの所持している軍票は、一部偽造のものが混入している可能性はあるとはいえ、その多くは、日本政府が発行し香港において流通させた軍票であると推認できるから、原告らがインフレによる軍票の価値の暴落、大蔵省声明による無効化等により経済的、財産的な損害を被ったであろうことは、おおむね事実として推認する余地はあるというべきである。また、被告が大蔵省声明を根拠として、原告らが所持すると主張する軍票の換金を拒否していることは弁論の全趣旨に照らし明らかである。

以上の事実を前提として、前記第三の原告らの主張とこれに対する被告の主張とを対比すると、本件訴訟における主要な争点は、次のとおりである。

二  本件における主要な争点

1  原告らは、ハーグ陸戦条約三条に基づき、軍票の強制交換等を理由として、被告に対し、損害賠償の請求をすることができるか。

2  原告らは、被告が原告らの所持する軍票を日本円に換金しないことを理由として、被告に対し、債務不履行に基づく損害賠償の請求をすることができるか。

3  本件覚書及び大蔵省声明による軍票の無効ないしは無価値化が有効とされる場合、原告らは被告に対し、憲法二九条三項に基づき正当な補償を請求することができるか。

4  原告らは、民法七〇九条あるいは国家賠償法一条一項に基づき、被告に対し、損害賠償の請求をすることができるか。

5  原告らの被った損害の額

第六当裁判所の判断

一  原告らの主張の要旨は、原告らが所持している軍票は、原告らあるいはその親族が、日本軍による軍政下の香港において、香港ドルとの交換を強制されたもので、その結果、原告ら及びその親族は多くの財産的損害を被ったばかりか、日本軍の軍政下における多くの違法行為により財産的、精神的に多大の損害や苦痛を受けたとして、被告に対しその損害の賠償を求めるというものである。原告らの被った被害あるいは損害に関しては、原告らの主張に沿う多数の陳述書等の書証や関係者の供述など多くの証拠が提出されており、現在軍票を所持している原告らが経済的、財産的な損害を被ったであろうことは、おおむね事実として推認する余地があることは前述したとおりである。

しかしながら、本件においては、前記第五の争点に記載したとおり、損害賠償請求権自体の成否ないしは存否について争いがあるので、具体的な被害の事実の認定に入る前に、まず、その点について判断する。

二  争点に対する判断

1  争点1(ハーグ陸戦条約三条に基づく損害賠償請求権の存否)について

原告らは、ハーグ陸戦条約三条はハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った被害者個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することを認めたものであると主張し、原告らあるいはその親族が軍票への交換を強制されたことはハーグ陸戦規則四六条二項に違反するとして、ハーグ陸戦条約三条に基づいて被告に対し損害賠償を請求する。そこで、以下、この点について検討する。

(一) 前提

ハーグ陸戦条約二条は、「第一条ニ掲ケタル規則及本条約ノ規定ハ、交戦国カ悉ク本条約ノ当事者ナルトキニ限、締約国間ニノミ之ヲ適用ス。」と定めている。第二次世界大戦においては、交戦国のすべてがハーグ陸戦条約の締約国であったわけではなかったから、原告らの主張する被害事実についてハーグ陸戦条約が直接適用されると解することはできない。そうすると、原告らは、ハーグ陸戦条約に具現化された国際慣習法に基づいて損害賠償を請求しているものと解されるが、いずれにしても、原告らの右請求が認められるか否かはハーグ陸戦条約三条の解釈いかんによることとなる。

(二) 条約の解釈方法

(1) 昭和四四年(一九六九年)に採択された条約法条約は、条約の解釈方法について以下のように規定している。

三一条 1 条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。

2  条約の解釈上、文脈というときは、条約文(前文及び附属書を含む。)のほかに、次のものを含める。

(a) 条約の締結に関連してすべての当事国の間でされた条約の関係合意

(b) 条約の締結に関連して当事国の一又は二以上が作成した文書であってこれらの当事国以外の当事国が条約の関係文書として認めたもの

3  文脈とともに、次のものを考慮する。

(a) 条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意

(b) 条約の適用につき後に生じた慣行であって、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの

4  用語は、当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認められる場合には、当該特別の意味を有する。

三二条 前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため、解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる。

(a) 前条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合

(b) 前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合

(2) ところで、一般に条約の解釈は、その条約の発効時における国際法上の条約解釈のための規則に従ってなされるべきものと解されるところ、ハーグ陸戦条約が日本について発効した明治四五年(一九一二年)ころにおける条約の解釈方法については、一般的な明文の規定は存在しない。しかし、条約法条約は、それまで精緻化されてきた条約解釈に関する国際慣習法を集大成したものと解される。そうであるとすれば、ハーグ陸戦条約発効時の条約解釈のための手順と条約法条約による解釈手順はその趣旨及び内容において近似していると考えられることからすると、条約法条約には、同条約は遡及しない旨の規定(四条)が存するものの、ハーグ陸戦条約の解釈も、条約法条約に定められた解釈方法に準じて行うのが相当である。そこで、以下、ハーグ陸戦条約三条の解釈に当たっては、右条約法条約三一条及び三二条の解釈方法に準じて、用語の通常の意味に照らした解釈、事後の実行に照らした解釈及び条約の起草過程に照らした解釈の順で検討を加えることとする。

(三) 用語の通常の意味に照らした解釈

(1) 前記のとおり、条約法条約三一条一項は、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に」解釈するとされている。そこで、以下、この解釈方法に準じて、ハーグ陸戦条約三条の解釈を検討する。

ア ハーグ陸戦条約は、その前文で、以下のように述べる。

「平和ヲ維持シ且諸国間ノ戦争ヲ防止スルノ方法ヲ講スルト同時ニ、其ノ所期ニ反シ避クルコト能ハサル事件ノ為兵力ニ訴フルコトアルヘキ場合ニ付攻究ヲ為スノ必要ナルコトヲ考慮シ、斯ノ如キ非常ノ場合ニ於テモ尚能ク人類ノ福利ト文明ノ駸駸トシテ止ムコトナキ要求トニ副ハムコトヲ希望シ、之カ為戦争ニ関スル一般ノ法規慣例ハ一層之ヲ精確ナラシムルヲ目的トシ、又ハ成ルヘク戦争ノ惨害ヲ減殺スヘキ制限ヲ設クルヲ目的トシテ……(以下略)」

「締約国ノ所見ニ依レハ、右条規ハ、軍事上ノ必要ノ許ス限、努メテ戦争ノ惨害ヲ軽減スルノ希望ヲ以テ定メラレタルモノニシテ、交戦者相互間ノ関係及人民トノ関係ニ於テ、交戦者ノ行動ノ一般ノ準縄タルヘキモノトス」

また、ハーグ陸戦条約一条には、「締約国ハ、其ノ陸軍軍隊ニ対シ、本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スヘシ。」との規定がある。

一方、ハーグ陸戦規則は、戦争における俘虜、病者及び傷者の扱い、戦闘における害的手段等の制限、休戦の手続き、敵国の領土を占領した軍隊の遵守事項等について規定している。

このようなハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦規則の規定に照らすと、同条約及び同規則の趣旨及び目的は、陸戦における軍隊の遵守すべき事項を定め、もって「戦争ノ惨害」を軽減しようという点にあると解される。

イ 一方、ハーグ陸戦条約三条は、ハーグ陸戦規則に違反した国家の損害賠償責任を規定するが、その賠償の相手方については規定していない。また、ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦規則には、個人が国家に対して損害賠償を請求することを前提とした手続規定も存しない。

ウ そして、国際法における伝統的な考え方によれば、国際法上の法主体性を認められるのは原則として国家であり、個人は、国際法においてその権利、義務について規定され、かつ個人自身の名において国際的にその権利を主張しうる資格が与えられてはじめて例外的に国際法上の法主体性が認められると解されている。また、個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には、当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出しうる主体としては認められず、その属する本国が、当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって、自らの法益の侵害として引き受け、国家間関係に切り替えて相手国に国家責任を追及するものと解されている(国家責任の法理)。

(2) 右アないしウで検討したところによれば、条約法条約三一条の規定に沿って、用語の通常の意味に従って解釈をする限りでは、ハーグ陸戦条約三条は、ハーグ陸戦規則の遵守を実効化するため、同規則に違反した交戦国の損害賠償責任を定めたものであり、同規則違反によって損害を被った個人が国家に対して直接損害賠償請求権を行使することを認めたものではないと解すべきである。

(3) これに対し、原告らは、ハーグ陸戦条約三条の文言からは、加害国に損害賠償を請求することができる者が国家なのか個人なのか「あいまい」ないし「不明」であると主張する。しかし、右に述べたように、用語の通常の意味に従って解釈する限りでは、同条は国家責任の法理を定めた規定と解されるから、同条の文言が「あいまい」ないし「不明」であるとはいえない。

また、阿部浩己の意見書<証拠略>には、ハーグ陸戦条約三条においては「賠償(compensation)」との文言が使用され、原状回復や陳謝、責任者処罰などをも射程に入れた「restitution」という伝統的な用語が用いられていないことから、同条は賠償請求主体を個人としているとみることに相当の合理性があるとの記述がある。しかし、「compensation」という文言のみから直ちに用語の通常の意味に照らした解釈として個人に損害賠償請求権を付与したとみることは困難である。

(四) 事後の実行に照らした解釈

(1) 前記のとおり、条約法条約三一条三項は、用語の通常の意味に照らした解釈に当たっては、文脈とともに、「条約の適用につき後に生じた慣行であって、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの」を考慮すると定めており、ハーグ陸戦条約三条の解釈に当たっても、条約に基づいてとられた当事国の事後の行動を考慮することができると解される。

そして、原告らは、後記<1>ないし<3>の事例については、個人に賠償を行わなければならないという国際慣習法が確立していたことを示すものであると主張し、後記<4>及び<5>の事例については、ハーグ陸戦条約三条を直接の根拠として個人の損害賠償請求を認容した事例にあたると主張する。さらに後記<6>ないし<8>の事例については、証拠(阿部意見書及び証人カルスホーヴェン別件調査書<略>)中に、これがハーグ陸戦条約三条を直接の根拠として個人の損害賠償請求を認容した事例にあたるとする記述が存する。

(2) そこで、以下これらの事例について、ハーグ陸戦条約三条の事後の実行といえるかを順次検討する。

<1> ヴェルサイユ条約による混合仲裁裁判所

原告らは、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で、ハーグ陸戦条約三条が適用され、個人が加害国に対して直接損害賠償請求権を行使することを認める趣旨で個人に対する賠償が実行されたと主張する。

原告らが主張するのは、ヴェルサイユ条約によって設置された混合仲裁裁判所に直接個人が訴えを提起することができたことを指すものと解されるが、これは同条約によって例外的に個人が加害国に対して損害賠償請求権を行使することを認めたものにすぎないというべきである<証拠略>。したがって、この事例をもって、原告らの主張するような国際慣習法が確立していたと認めることはできない。

<2> パナイ号爆撃事件

原告らは、昭和一二年(一九三七年)の南京事件の際、日本軍がアメリカのパナイ号を爆撃した事件について、日本政府がアメリカ政府を通してその乗員など被害者個人に対してその損害を賠償したと主張する。

しかし、弁論の全趣旨によれば、右事件では、損害賠償請求権の主体とされたのはアメリカ政府であって、被害者個人ではないと認められる。右事件は、まさに国家責任の実行の一例であって、これをもって、原告らの主張するような国際慣習法が確立していたと認めることはできない。

<3> 阿波丸爆撃事件

原告らは、昭和二〇年(一九四五年)四月、捕虜救恤品輸送のため、安導券の確約を受けた阿波丸が、アメリカ軍に違法に攻撃を受け沈没したため、約二〇〇〇名が死亡した事件につき、日本政府は、スイス政府を通して、アメリカ政府に対して、被害者一人あたり五万円から二〇万円まで四ランクにわけて損害賠償請求をしたと主張する。

しかし、弁論の全趣旨によれば、右事件は、被害者個人が加害国に対して直接損害賠償を請求した事案ではなく、被害者個人の損害額は、日本が外交保護権の行使として加害国であるアメリカに対して損害賠償を請求する際の算定基準とされたにすぎず、右事件は、むしろ、日本政府がアメリカ政府に対し、その国家責任を追及した一例と考えられるべき事案であると認められる。よって、右事件をもって、原告らの主張するような国際慣習法が確立していたと認めることはできない。

<4> ドイツ・ミュンスター行政控訴裁判所判決

原告らは、昭和二七年(一九五二年)四月九日、ドイツ・ミュンスター行政控訴裁判所が「原告の損害賠償請求権は、国内公法のみならず、国際法からも生じる。一九〇七年のハーグ陸戦条約第三条により、国家は、自国の軍隊を組成する人員の一切の行為(ハーグ陸戦規則の違反)につき責任を負う。文民の保護のため広範な文言が選択された第三条によれば、損害をもたらした者の過失は責任の要件ではない。第三条が軍隊構成員の行為にかかわる占領国の絶対責任について規定しているということは、国際法の疑いなき原則である。国際法の定めるこの絶対責任の枠内で、国家は『無形的』損害についても賠償する義務を負う。」との判決を下し、ハーグ陸戦条約三条を直接の根拠として個人の損害賠償請求権を認容したと主張する。

しかし、弁論の全趣旨によれば、右判決の事案は、ドイツ占領中のイギリス軍が使用する自動車によって重度の人身障害を受けたドイツ住民が、ドイツ当局に損害賠償を求めたものであって、加害国とされるイギリス政府に対する請求ではなかったものである。よって、右判決をもって、原告らの主張するハーグ陸戦条約三条の解釈の事後実行と認めることはできない。

<5> ドイツ・ボン地方裁判所判決

原告らは、平成九年(一九九七年)一一月五日、ドイツ・ボン地方裁判所が「侵略者の責任は、既に両世界大戦の間に国際法の要素になった。捕虜と占領地の一般住民を殺害したり奴隷化したりしてはならないという原則も国際法の一般規則に属しているということについて意見が一致している。この一般原則は、一九〇七年一〇月一八日の陸戦の法規慣例に関するハーグ第四条約にも表現されている。ドイツ帝国は、ハーグ第四条約を一九一九年一〇月七日に批准したので、その規則を遵守しなければならなかった。この条約の附属書五二条によると、占領地の住民への課役は占領軍の需要のためにするのでなければ要求することができないし、住民が母国に対する戦闘行為に従事する義務も含めてはならない。そのうえ、四六条によると、住民の名誉、生命、信仰・宗教は尊重されなくてはならない。したがって、交戦中のドイツ帝国は、ユダヤ系住民を軍事工場で殲滅を目的として非人間的条件下で強制労働させることも禁じられていた」と述べたうえで、さらに、ハーグ陸戦条約が相互主義の下で損害賠償責任を課しているわけではないこと、連邦憲法二五条によってハーグ陸戦条約が国内法化されていること、しかも同条約の効力順位が法律よりも上位におかれていることを根拠として、ハーグ陸戦条約により帝国公務員責任法の求める相互主義の適用を排除することもあわせて判示し、ハーグ陸戦規則違反の行為に起因する損害賠償責任が個人のために援用されることを明らかにしたと主張する。

この点については、阿部意見書及び弁論の全趣旨によれば、ドイツ・ボン地方裁判所が原告ら主張の内容の判決を行ったことが認められる。そして、阿部意見書によれば、右判決が個人の国家(ドイツ)に対する損害賠償請求権を認めた直接の根拠は国内法(民法典)にあった可能性が高いが、同判決の内容に照らすと、同判決がハーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を認める根拠となりうるとする見解を示したものと解する余地はあるというべきである。

<6> コンゴ内乱

フリッツ・カルスホーヴェンは、「一九六〇年代初頭におけるコンゴでの内乱に関し、国連軍がベルギー人に対して被害を及ぼしたところ、国連の事務総長が、右行為は戦争法規に違反するものであったこと、その被害者は被った損害について国連から賠償を受ける権利があるということを認め、何人かのベルギー人が直接国連から賠償を受けた。これは、ハーグ陸戦条約三条の背景にある個人の請求権を肯定する原則が認められた事例である。」と述べる<証拠略>。しかし、小寺彰の意見書<証拠略>によれば、この事例は、国連とPKO受入国との間に条約が結ばれたことによって個人の損害賠償の填補が図られたものと認められる。よって、右事例をもって、原告らの主張するハーグ陸戦条約三条の解釈の事後実行と認めることはできない。

<7> ユーゴスラビア紛争

フリッツ・カルスホーヴェンは、「ユーゴスラビアの紛争の中で行われた行為について、国連総会の決議は、右行為について責任を負う者が処罰されるべきである、民族浄化の犠牲になった人々が賠償を受けるべきであると述べている。これは、ハーグ陸戦条約三条の背景にある個人の請求権を肯定する原則が認められた事例である。」と述べる<証拠略>。しかし、小寺意見書によれば、国連がハーグ陸戦条約三条を根拠にして、いずれかの国の国内裁判所でクレイム(個人が被った被害の填補請求権)の処理を義務づけられた例はないというのであるから、この事例も、原告らの主張するハーグ陸戦条約三条の解釈の事後実行と認めることはできない。

<8> 第一追加議定書九一条に関する赤十字国際委員会コンメンタールの注釈

阿部意見書には、ハーグ陸戦条約三条をほぼそのままの形で再現した平成九年(一九九七年)の第一追加議定書九一条に注釈を加える赤十字国際委員会コンメンタールの注釈が、「賠償を受ける権利を有する者は、通常は、紛争当事国またはその国民である」と述べ、個人の賠償請求資格をはっきりと認めているとの記述がある。しかし、赤十字国際委員会の見解自体は事後の実行にあたるとは解し得ない。また、右注釈は、前記記述に引き続き、「例外的な場合を除いて、紛争当事国の違法行為によって損害を受けた外国籍の人は、自ら、自国政府に訴えを行うべきであり、それによって当該政府が、違反を行った当事国に対してそれらの者の申立てを提出することとなろう。」としており(弁論の全趣旨)、この記述からすると、赤十字国際委員会が、前記九一条について、個人が直接相手国に対する賠償請求の主体になるとの見解を採用していたものと認めるのは困難である。

(3) 以上(2)で検討したところによれば、<5>の事例を除いては、ハーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を認める根拠となりうるとする見解を示した事例はないと言わざるを得ない(なお、<5>の事例についても前述のとおり、損害賠償請求権を認めた直接の根拠はドイツ国内法にあったとみる余地があり、そうであるとすれば、厳密には、ハーグ陸戦条約三条に基づき個人が国家に対し直接損害賠償請求をした実行例といえないことになる。)。そして、ほかに、ハーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する直接の損害賠償請求権を認める根拠となりうるとする見解を示した事例が存在すると認めるに足る証拠はないばかりか、かえって、アメリカ合衆国第四巡回区控訴裁判所平成四年(一九九二年)六月一六日判決は、「ハーグ陸戦条約は、個人が行使する訴権を明確に規定していない。さらに、我々は、同条約を全体として合理的に解釈しても、締約国がそのような権利を付与する意図があったという結論には達しない」と判示し、同国コロンビア特別区地方裁判所平成六年(一九九四年)七月一日控訴審判決は、「ハーグ陸戦条約のいかなる条項も同条約の違反に対して個人に損害賠償請求権を付与することを示唆すらしていない」と判示していることが認められる<証拠略>。

そうすると、事後の実行を考慮してハーグ陸戦条約三条を解釈しても、同条は、ハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することを認めた規定とは解されないというべきである。

(五) 条約の起草過程に照らした解釈

(1) 前記のとおり、条約法条約三二条では、条約の解釈に当たっては、同条約三一条の規定により得られた意味を確認するために、条約解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができるとしているので、以下、ハーグ陸戦条約三条の起草過程について検討する。

なお、条約法条約三二条では、(a)「前条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合」あるいは(b)「前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合」には、条約の解釈を「決定」するために、右の検討を行うことができるとしているが、ハーグ陸戦条約三条の規定が右(a)の場合に当たらないことは前記(三)のとおりであり、(b)の場合にあたらないことも明らかであるから、右検討作業は、条約法条約三一条の規定の適用により得られた意味を「確認」するために行うものである。

(2) 各国代表の提案及び発言

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

ア ハーグ陸戦条約三条は、第二回国際平和会議の全体会合及び第二委員会で検討がなされた。同委員会での検討の際、明治三二年(一八九九年)のハーグ陸戦規則の条文の修正案について、ドイツ代表から同規則の違反に対する賠償について以下のような条文を新設することの提案があった。

第一条 この規則の条項に違反して中立の者を侵害した交戦当事者は、その者に対して生じた損害をその者に対して賠償する責任を負う。交戦当事者は、その軍隊を組成する人員の一切の行為に付き責任を負う。

現金による即時の賠償が予定されていない場合において、交戦当事者が生じさせた損害及び支払うべき賠償額を決定することが、当面交戦行為と両立しないと交戦当事者が認めるときは、右決定を延期することができる。

第二条 (同規則の)違反行為により交戦相手側を侵害したときは、賠償の問題は、和平の締結時に解決するものとする。

ドイツ代表は、右提案について概要以下のとおり説明した。

「一八九九年ハーグ陸戦条約によれば、各国政府は、その軍隊に対し、同条約附属規則の規定に従った訓令を出す以外の義務を負わない。これらの規定が軍隊に対する命令の一部になることに鑑みれば、その違反行為は軍事刑罰法規により処断される。しかし、この刑事罰則だけでは、あらゆる個人の違反行為の予防措置とはならないことは明らかである。そこで、右規則違反による損害の賠償について検討することが必要であるが、国家の責任を過失責任の法理によらしめるとすれば、国家に、その管理・監督上の過失が認められない場合がほとんどであろうから、損害を受けた者は、政府に対し賠償を求めることができないし、違法行為を行った士官または兵士に対して、賠償を求めたとしても、多くの場合は賠償を得ることができないであろう。したがって、我々は、軍隊の構成員が行った規則違反による一切の不法行為責任は、その者の属する国の政府が負うべきであると考える。そして、その責任、損害の程度、賠償の支払方法の決定については、中立の者の場合は、交戦行為と両立する最も迅速な救済のための措置を講じるものとし、敵国の者の場合は、賠償の問題の解決を和平回復時まで延期することが必要不可欠である。」

ドイツの右提案に関しては、交戦国の市民と中立国の市民との間に区別を設けていた点について賛否が分かれた。

イ 第二回国際平和会議第二委員会第一小委員会議長は、ドイツの右提案に関して、概要以下のとおり述べた。「現在の規定に欠けている制裁条項を加えようという大変興味深いこの提案は、二つの部分からなっている。第一は、中立の者に関する部分であり、ある交戦当事国の軍隊を組成する者により中立の者に対し生ぜしめられた損害はその者に対して賠償してしかるべしとしている。そこには権利があり義務があるが、交戦相手側の者に対して生ぜしめられた損害については、いかなる権利も規定されていない。単に、交戦相手側の者に関する賠償の問題は、和平達成時に解決されるべきである旨述べられているのみである。」

ウ ロシア代表は、「我々は、先程この会議に提案を行った際、戦時における平和市民の利益を念頭に置いていたが、ドイツ提案はその同じ利益に合致するものであると考える。我々の提案は、一八九九年条約の実施にあたりこれら市民に課せられる苦痛を和らげることを目指すものであった。ドイツ提案は、この条約の違反によりこれら市民に対し生ずる損害を想定したものである。これら二つの提案の根底にある懸念は正当なものであり、それ自体として国際的合意の対象となってしかるべきであると考える。」などと述べた。

エ フランス代表は、「ドイツ修正案に見られる主張は、中立国の国民と侵略地または占領地に居住する交戦国の国民とを区別し、前者に有利な地位を与え、彼らにいわゆる中立の配当を認めようとするものである。個人のためにとられる保護措置は中立の者か交戦相手側の者かにより区別を設けることなく、すべての者に対し同様に適用されるべきであると考える。」などと述べた。

オ スイス代表は、ドイツ修正案に賛意を表明し、「ドイツ修正案が中立の者に許し難い特権を与えるというのは誤りである。ドイツ修正案が示している原則は、損害を受けたすべての個人に対し、敵国の国民であるか中立国の国民であるかを問わず適用可能である。これら二つのカテゴリーの被害者、すなわち権利保有者の間に設けられた唯一の区別は、賠償の支払に関するものであり、この点に関する両者間の違いは物事の性質そのものにある。中立の者に対する賠償の支払は、責任ある交戦国が被害者の国とは平時にあり、また、平和な関係を維持しており、両国はあらゆるケースを容易にかつ遅滞なく解決しうる状態にあるため、たいていの場合、即時に行いうるであろう。このような容易さないし可能性は戦時という一大事により、交戦国同士の間では存在しない。賠償請求権は中立の者と同様各々の交戦国の者についても生ずるが、交戦国同士の間での賠償の支払は、和平を達成してからでなければ決定し実施することはできないであろう。」などと述べた。これに対し、ドイツ代表は、「自分自身もできない最高の弁明をしていただいた。」と謝辞を述べた。

カ イギリス代表は、「ドイツ修正案においては、中立の者に対し特権的地位が与えられているが、これを受け入れることはできない。第一条が中立の者に対し、受けた損害の賠償を交戦当事者に要求する権利を与えているのに比べ、第二条では交戦相手側の者については賠償は和平の締結時に解決するとしている。したがって、交戦相手側の者にとっては、賠償は平和条約に盛り込まれる条件次第、交戦国の交渉の結果次第ということになる。私は、陸戦の法規慣例違反の被害者に対し交戦当事国が賠償をなすべき責任を否定するものではなく、英国はいかなる意味においてもこの責任を免れようとしているわけではない。」などと述べた。

キ ドイツ代表は、右提案が交戦国の市民と中立国の市民との間に区別を設けていることへの批判に対し、「両者の間に権利の違いを設ける意図はなく、右提案は、賠償の支払方法を規定するものにすぎない。」などと回答した。

ク 各国代表の発言の中には、一八九九年ハーグ陸戦規則に違反する行為によって損害を被った個人が加害国に対して損害賠償請求権を有することを明確に肯定または確認した発言はなかった。

ケ 以上の検討を経て、第二委員会が、ドイツ提案を「本規則の条項に違反する交戦当事者は、損害が生じたときは、損害賠償の責任を負う。交戦当事者は、その軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負う。」との規定にまとめ、この規定が総会において全会一致で採択され、最終的に、規則中ではなく、条約の本文としてハーグ陸戦条約三条として盛り込まれた。

(3) 起草過程の検討

ア 右のような起草過程によれば、まず、ドイツ代表者が、ハーグ陸戦規則に違反して中立の者を侵害した交戦当事国がその者に対して生じた損害を「その者に対して」賠償する責任を負うとの条項を付け加えることを提案したものであって、この発言それのみを捉えれば、あたかもドイツ代表者がハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人が加害国に対して直接損害賠償請求権を行使することを認めることを意図していたかのようにも解される。

しかし、右の起草過程をみると、各国代表の関心は、もっぱら中立国の市民と交戦国の市民とを区別することの是非に向けられているのであって、各国代表の発言の中には、個人の加害国に対する損害賠償請求権を肯定あるいは否定することについての発言は何ら存在しない。むしろ、スイス代表が「中立の者に対する賠償の支払は、責任ある交戦国が被害者の国とは平時にあり、また、平和な関係を維持しており、両国はあらゆるケースを容易にかつ遅滞なく解決しうる状態にあるため、たいていの場合、即時に行いうるであろう。このような容易さないし可能性は戦時という一大事により、交戦国同士の間では存在しない。賠償請求権は中立の者と同様各々の交戦国の者についても生ずるが、交戦国同士の間での賠償の支払は、和平を達成してからでなければ決定し実施することはできないであろう。」との、国家間の賠償を前提とした発言をしたのに対し、ドイツ代表が謝辞を述べていることからすると、ドイツ代表の提案は、ハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人の救済を最終的には意図していたとしても、それは、同規則違反の行為によって損害を与えた国家が被害者である個人が所属する国家に対して損害賠償の義務を負うという国家責任の原則を踏み越えるものであるとまでは認められず、同規則違反の行為によって損害を被った個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することを意図していたものではないと認めるのが相当である。そして、第二委員会がまとめた条文及び最終的に採択されたハーグ陸戦条約においては、当初ドイツ代表から提案のあった「その者に対して」との文言が削除されていることもあわせて考えると、ハーグ陸戦条約の起草にあたった各国代表が、同条約三条の起草過程において、同条がハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人に加害国に対する損害賠償請求権を付与することを意図していたと認めることはできない。

イ これに対し、原告らは、ドイツ代表の提案はハーグ陸戦規則違反の行為による被害者個人に請求権があることを大前提としながら、国家責任を認めようとしたものであって、これに対し各国代表からはまったく異論が出なかったのみならず、議長、イギリス代表及びスイス代表の発言の中にも、中立国の市民ないし交戦国の市民にも賠償請求権が認められるべきことが述べられていると主張する。

しかし、ドイツ代表の提案がハーグ陸戦規則違反の行為による被害者個人に請求権があることを大前提とするものであるなら、スイス代表が国家間の賠償を前提とする発言をしていることに対し、ドイツ代表が何ら異論を唱えることなく、かえって謝辞を述べていることの説明がつかない。

なお、各国代表の発言についても、確かに、これらの発言の中には、ハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人に対して加害国は損害賠償責任がある旨を述べたものがある。しかし、これらの発言の多くは、結局ドイツ代表の提案を反復したにすぎない。また、イギリス代表は「私は、陸戦の法規慣例違反の被害者に対し交戦当事国が賠償をなすべき責任を否定するものではなく、英国はいかなる意味においてもこの責任を免れようとしているわけではない。」と述べているものの、スイス代表は、右のように国家間の賠償を前提とする発言をする一方で、「ドイツ修正案が示している原則は、損害を受けたすべての個人に対し、敵国の国民であるか中立国の国民であるかを問わず適用可能である。」との、被害者個人に対する賠償を前提とするかのような発言をしていたことからすると、イギリス代表を含めた各国代表は、ハーグ陸戦条約の起草過程で、ハーグ陸戦規則違反の行為によって生じた個人の損害を填補することを意図していたものであるというべきであるが、さらにそれを越えて、被害者個人に加害国に対する直接の損害賠償請求権を付与することを意図していたものとまで認めるには足りないというべきである。このことは、各国代表がドイツ代表の提案に対し、被害者個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することの是非をめぐって議論をした形跡がないことからも明らかである。仮に、被害者個人の加害国に対する損害賠償請求権を肯定するとすれば、それは従来の国家責任の原則を修正するものであるから、これに反対する代表があってもおかしくはないし、個人の損害賠償請求権を認めるとしても、いかなる手続きでこれを実現していくのか、個人に生じた損害をすべて賠償する義務を加害国に負わせるのかなど、議論すべき問題が多々存すると思われるのに、これらの点に関する議論がまったくなされていないことからすると、原告らが主張するような各国代表の発言の一部を捉え、これをもって各国代表が個人に加害国に対する損害賠償請求権を付与することを前提としていたとみることはできない。

なお、原告らは、損害の救済の実現方法等について起草過程において議論がなくとも、ハーグ陸戦条約は当然に国内法的効力を持つから、ハーグ陸戦条約違反が主張される当該国家の国内法における手続法によってその救済が図られればよいのであって、損害の救済方法の実現方法等について起草過程において議論がないことは、被害者である個人から国家に対する損害賠償請求権を認めない根拠とはなり得ないと主張する。確かに、ハーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を付与したものであるという前提に立てば、損害の救済方法の実現方法に関する規定が存しないことは権利実現にあたっての障害とはならないという主張もありうるというべきである。しかし、ここではそもそもその前提となる同条が個人に損害賠償請求権を付与したものであるか否かが問題となっており、その判断のために条約の起草過程を検討したものである。そうであるとすると、その起草過程において個人の権利実現の方法について何ら議論がなされていない(すなわち、個人の権利実現は各国の国内法に委ねるとの議論もなされていない。)ということは、前提となる個人の請求権を付与したものであるとの解釈をとるうえでの障害となることは明らかであり、この点に関する原告らの右主張は採用できない。

(六) ハーグ陸戦条約三条の規定の解釈に関する結論

以上(三)ないし(五)の、用語の通常の意味に照らした解釈、事後の実行に照らした解釈及び条約の起草過程に照らした解釈で検討した結果によれば、ハーグ陸戦条約三条は、交戦当事国である国家が、自国の軍隊の構成員によるハーグ陸戦規則違反の行為につき、相手国に対し損害賠償責任を負うという、加害国と被害国間の権利義務関係について定めたものと解すべきであり、同条が国内法的効力を有するとしても、被害国の被害者個人の加害国に対する損害賠償請求権を創設したものとは言えないから、原告らの主張するような損害賠償請求権の存在を根拠付けるものとは言えない。

そして、原告らは、ハーグ陸戦条約三条が被害者個人の損害賠償請求権を認めているとの解釈を前提に、同条によって具体化された国際慣習法に基づく損害賠償請求権の存在を主張しているものと解されるが、右のとおり、ハーグ陸戦条約三条は被害者個人の損害賠償請求権を認めていないと解される以上、そのような原告らの主張も採用できない。

2 争点2(債務不履行による損害賠償請求権の成否)について

前提となる事実によれば、原告らがそれぞれ香港軍政下において日本政府ないしは日本軍が発行した軍票を所持していること、原告らの所持している軍票の裏面には、この軍票を所持する者に対していつでも等価で日本通貨に換金するとの趣旨の記載があることが明らかであり、この事実を前提として、原告らは、被告が原告らの所持している軍票の日本円との交換に応じないことは債務不履行に当たると主張し、債務不履行に基づく損害賠償を請求している。これに対し、被告は、本件覚書及び大蔵省声明により、軍票は無効、無価値になっており、被告には原告らの主張するような債務の不履行はないと主張して争っている。そこで、以下、本件覚書及び大蔵省声明の効力について検討する。

(一) 前提となる事実と<証拠略>によれば次の事実が認められる。

(1) 日本政府は、昭和一二年(一九三七年)一〇月二二日閣議決定された「軍用手票発行要領」及び同日付け大蔵大臣通達である「支那事変派遣部隊経費支弁軍用手票取扱手続」に基づき軍票の発行を決定したが、右要領では、<1>軍票は原則として華北を除く中国で、派遣軍の軍人・軍属の俸給、給与以外の支払にあてる、<2>軍票と日本通貨との引換えは当分の間行わない、<3>軍票の価値維持については軍において適当な措置を講ずる、とされ、右大蔵大臣通達で取扱手続が定められていた。その後同要領は、昭和一三年(一九三八年)九月二三日の閣議決定で、<1>軍票は華北を除く中国での軍費にあてる、<2>軍票は必要に応じて日本通貨と引き換える、<3>軍票の価値維持については政府及び軍において最も有効適当な措置を講ずる、<4>前各項の取扱手続は大蔵大臣、陸軍大臣及び海軍大臣と協議のうえ定める、と改められた。<証拠略>

(2) 右のように、軍票は、当初中国における陸軍派遣部隊の軍人・軍属の俸給、給与以外の軍費支払のために発行されていたが、昭和一三年(一九三八年)九月二三日の右閣議決定からその使用範囲を拡張し、陸軍における軍人軍属の俸給、給与等にも使用するようになり、さらに海軍においてもこれを使用することになった。また、昭和一四年(一九三九年)一二月以後は、軍以外に対しても広く使用されるようになり、戦時に際して、戦地または占領地での食料、軍需品の調達などのためにも使用されるようになった。

日本軍の軍政下にあった香港でも、右要領に基づき、軍票が発行され、食料、軍需品の調達などのために使用されていたが、軍票一色化政策の推進により、当時の香港住民の間では一般の通貨として使用されていた。<証拠略>

(3) 軍票は戦地または占領地で使用される紙幣であり、通貨の一種ではあるが、使用されるのは国外の日本軍の派遣地であり、法律上の強制通用力は持たず、その発行には法律または緊急勅令を要しなかった。<証拠略>

(4) 日本は、昭和二〇年(一九四五年)八月にポツダム宣言を受諾し、同年九月二日、降伏文書に調印し、同年一〇月二日には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が開設された。日本は、ポツダム宣言の受諾後、昭和二七年(一九五二年)四月二八日に平和条約が発効するまでは連合国による占領下におかれていた。そして、占領下の日本の行う諸政策は、連合国最高司令官の発する指令、覚書等に沿い、直接的には、国会の制定する法律あるいは政策等により実施されるという間接管理方式によることとされていた。

(5) 連合国最高司令官の発する指令、覚書等は、ポツダム宣言及び右降伏文書に基づくもので、降伏文書には、「天皇及日本政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」という規定(第八項)があり、これによって、日本国の統治は、連合国最高司令官が適当と認める範囲で発する指令、覚書等に従うことを要することになった。

(6) 連合国最高司令官は、降伏条項を実施するため、大日本帝国憲法及び日本国憲法にかかわりなく、まったく自由にみずから適当と認める措置をとることができ、日本国政府は、連合国最高司令官の発した指令、覚書等に従いこれを実施することを要する法律関係にあった。

(7) 連合国最高司令官は、昭和二〇年(一九四五年)九月六日、本件覚書を発し、これを受けて大蔵省は閣議決定を経たうえで、大蔵省声明を発した。本件覚書の内容は、日本政府、陸海軍の発行した一切の軍票を無効、無価値にして、その授受を一切の取引において禁止するというものであり、大蔵省声明は、右覚書を受けて一切の軍票を無効、無価値とするものである。<証拠略>

(二) 右(一)で認定した事実によれば、原告らが所持する軍票が発行された当時の「軍用手票発行要領」によれば、軍票は必要に応じて日本通貨と引き換えるとされており、かつ、原告らの所持する軍票の裏面には「此票一到即換正面所開日本通貨」という兌換文書が存するとはいえ、発行者である日本政府が、いわば超憲法的効力を有する連合国最高司令官の覚書を受けて、大蔵省声明によりみずからの兌換義務を消滅させたことが明らかであり、通貨に準じる軍票の性質に照らしても、本件覚書を受けた大蔵省声明により、被告の原告らに対する軍票の兌換義務は消滅したと解すべきである。

(三) ところで、本件覚書及び大蔵省声明の効力に関して、原告らは次のように主張するので検討する。

(1) 原告らは、本件覚書では、軍票は「無効無価値ニシテ」と、取引上の効力を禁止したにとどまったにもかかわらず、大蔵省声明はさらに進んで、軍票は「無効且無価値トシ」と、形成権的に軍票そのものを完全に無効、無価値としたもので、大蔵省声明は連合国最高司令官の指令の範囲を越えたものであると主張する。

確かに、原告らの主張するように本件覚書と大蔵省声明には若干の表現の違いがあることは事実であるが、本件覚書の文言及び文脈を素直に読む限り、本件覚書の趣旨が軍票を取引上の通貨としない点に重点があり一切の軍票そのものを無効、無価値とするものではないと解することには無理があり、本件覚書は、一切の軍票そのものを無効、無価値とすることを指示したものと解するのが相当である。

(2) 原告らは、本件覚書をはじめとする連合国最高司令官の指令や覚書は日本国の占領管理を円滑にするうえで適当と認められる範囲で発せられるものであること、本件覚書には、「斯ル通貨ノ授受ハ一切ノ取引ニ於テ禁止ス。」とあり、日本国内の通貨政策として日本国内における取引上の授受を禁止することが目的とされていること、本件覚書には「日本政府ハ本州、北海道、四国、九州及ビ附近水域ニ於テ左記事項ヲ法律、命令又ハ其ノ他ノ規程トシテ即時実施スベシ。」とあり、その実施範囲を日本地域に限定していることから、本件覚書及び大蔵省声明の効力の及ぶ範囲は日本国内に限られると主張する。

しかし、前記認定のとおり、軍票は、当初は華北を除く中国での軍費にあてるとされた通貨の一種であり、もっぱら日本国外で使用されることが予定されていたことは明らかであるから、本件覚書が一切の軍票そのものを無効、無価値とすることを明文で示している以上、日本国外に存する軍票についても当然に無効、無価値とする趣旨<証拠略>と解すべきであり、これを受けて大蔵省声明が発せられたものと解すべきである。原告らの主張するように、本件覚書の冒頭に、「日本政府ハ本州、北海道、四国、九州及ビ附近水域ニ於テ左記事項ヲ法律、命令又ハ其ノ他ノ規程トシテ即時実施スベシ。」との文言が存することは事実であるが、これは、連合国最高司令官の指令、覚書の及ぶ占領下の日本の範囲を確認的に記載したにとどまるものと解すべきであり、軍票の発行者である日本政府が連合国最高司令官の指示、覚書等に服する以上、日本政府が発行した軍票につき、日本国外に存する分も含めて一切を無効、無価値とすることを指示することと、連合国最高司令官の指令、覚書の及ぶ範囲が占領下の日本に限られることとはなんらの矛盾ないしは抵触を生じないと解すべきである。そして、軍票の通貨の一種としての性質に照らす限り、発行者である日本政府は、軍票の所在が国内にあるか国外にあるかを問わず、また所持者が日本国民であると外国人であるとを問わず、一律に軍票を無効、無価値とすることが可能であり、大蔵省声明は、軍票を無効、無価値とする地域を何ら限定していないのであるから、原告らの主張は採用できないというべきである。

なお、証人小林の証言中には、本件覚書の趣旨は、本件覚書の適用される領域が日本の領域に限定されていたことからしても、外地に流通している軍票が日本に持ち込まれた場合に流通が認められないということであって、外地に流通している通貨そのものをどのように処理するかという問題は別途考えられるべきことであったとする部分がある<証拠略>。しかし、右のような解釈は、同証人も様々な解釈がありうるとしているところであって、もっぱら日本国外で使用されることが予定されていた通貨の一種である軍票を一切無効、無価値にするという本件覚書の文言に明らかに反しており、採用することはできない。

(3) 原告らは、本件覚書及び大蔵省声明が発せられた以降も、シンガポールにおいて軍票が有効として扱われた事例があり、この事実からすると、本件覚書及び大蔵省声明は、日本国内においてのみ効力を有していたものであって、日本国外では、軍票が有効に扱われていたことが明らかであると主張する。

この点に関しては、<証拠略>によれば、昭和二〇年(一九四五年)一〇月一一日、シンガポールに開設されていた熊本郵便局の管轄下にある日本の郵便局の出張所において、葉氏美女及び林陳氏眞の両名がそれぞれ一万円を貯金したこと、平成八年(一九九六年)四月一五日、右一万円が軍事郵便貯金等特別処理法に基づいて評価換算され右両名に対し、それぞれ二七万六三二三円が支払われたことが認められる。そして原告らは、右両名がそれぞれ貯金したとされる一万円は両名が従軍慰安婦として働いた際に得た軍票であったと主張し、被告は、預けられたのが軍票であったかどうかは確認できないと反論するが、<証拠略>によれば、右シンガポールの郵便局が軍票による入金を一万円の貯金として扱ったと推認する余地はあるというべきである。

しかし、右のような事実が認められるとしても、弁論の全趣旨によれば、被告が一切の軍票を無効かつ無価値であるとする取扱いを変更していないことは明らかであり、右の事実から直ちに、軍票を無効、無価値とする地域が限定されていたと認定することはできない。

(4) 原告らは、債務者が一方的に債務は無効だと宣言したとしてもそれは認められるはずがないから、軍票所持者に対し等価で換金をするとの債務を負っている被告が大蔵省声明によって一方的に軍票の無効、無価値化を宣言することは許されないと主張する。

しかし、既に述べたように、軍票は通貨の一種であるところ、通貨にその価値を付与するのは通貨の発行者であるから、通貨の発行者が通貨の無効、無価値化を宣言し、通貨からその価値を剥奪した以上、通貨は無効、無価値とならざるを得ないものである。そうすると、軍票の発行者である日本政府が通貨である軍票の無効、無価値化を宣言し、軍票からその価値を剥奪した以上、軍票は無効、無価値となったのであって、軍票から生じる債務は消滅したと解するほかない。これは通貨の性質上やむを得ないところである。そして、連合国最高司令官の発する命令、指示は、日本国憲法にかかわりなく、いわば超憲法的効力を有するものであって、我が国の法令は右命令指示に抵触する限りにおいてその適用を排除されると解されるのであるから(最高裁昭和二七年四月二日判決・民集六巻四号三八七頁、同昭和二八年四月八日判決・刑集七巻四号七七五頁、同昭和二八年七月二二日判決・刑集七巻七号一五六二頁、同昭和四〇年九月八日判決・民集一九巻六号一四五四頁参照)、本件覚書を受けた大蔵省声明により原告らの所持する軍票もすべて無効かつ無価値になったと解さざるを得ないのである。

(四) 被告の債務不履行責任の有無に関する結論

以上検討したところによれば、本件覚書及び大蔵省声明の効力に関する原告らの主張は、いずれも採用することができないから、結局原告らの所持する軍票については、本件覚書を受けた大蔵省声明により、一切が無効かつ無価値になったものである。したがって、軍票の裏面にある日本通貨に交換する旨の記載も無効となったものと認めざるを得ず、被告が右軍票につきこれを日本円と交換する債務を依然として負っていることを前提とする、債務不履行に基づく損害賠償請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないというべきである。

なお、このような解釈によれば、軍票の真の権利者が不測の財産的損害を被るであろうことは否定できないが、本件に現われた軍票の発行と香港ドルの交換の経緯に照らすと、右損害は戦争犠牲ないしは戦争損害と認めざるを得ず、そのような損害を填補するか否かは、最終的には立法政策の問題というべきである。

3  争点3(憲法二九条三項の適用の有無)について

原告らは、本件覚書及び大蔵省声明による軍票の無効、無価値化が有効である場合、被告は憲法二九条三項によりその損失を補償する義務を負うと主張する。

しかし、日本国憲法一〇〇条一項には「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。」との規定があることからすると、日本国憲法には遡及効はないことは明らかである。そうであるとすれば、本件覚書及び大蔵省声明が発せられた昭和二〇年(一九四五年)九月には、未だ日本国憲法が施行されていなかったのであるから、本件覚書及び大蔵省声明による軍票無効化について憲法二九条三項が適用される余地はないというべきである。

4  争点4(不法行為責任の有無)について

原告らは、民法七〇九条ないし国家賠償法一条一項により被告は不法行為責任を負うと主張し、その損害の賠償を請求する。そこで、以下、この点に関する原告らの主張について検討する。

(一) 軍票強制による財産侵害

(1) 原告らは、日本軍による香港支配の過程で、日本軍は香港住民に対し、香港ドルと軍票の交換を強制することにより香港住民の香港ドルを略奪し財産権を侵害したのであるから、被告は、民法七〇九条に基づき損害を賠償する義務があると主張する。

しかし、仮にそのような事実が認められるとしても、そのことから被告に対する民法七〇九条に基づく損害賠償請求権が発生するかという観点からみると、大日本帝国憲法には国家賠償に関する規定は存在せず、同憲法の下では、「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」(行政裁判法一六条)とされ、国の賠償責任は、民事事件として通常裁判所が私法法規を適用しうる限度においてのみ認められたにすぎなかったものであり、国の権力的作用に属する行為が違法であることを理由とする損害賠償の請求は、特別の規定がない限り私法の不法行為法の規定は適用されないとして、判例上一貫して認められなかったものである(大審院明治四三年三月二日判決・民録一六輯五巻一六九頁、同昭和四年一〇月二四日判決・法律新聞三〇七三号九頁、同昭和八年四月二八日判決・民集一二巻一一号一〇二五頁、同昭和一三年一二月二三日判決・民集一七巻二四号二六八九頁、同昭和一六年二月二七日判決・民集二〇巻二号一一八頁等参照)。すなわち、現行の国家賠償法施行以前においては、権力的作用に基づく損害については、一般的に国に賠償責任を認める法令上の根拠が存しなかったのである。そして、香港における軍票の発行及び香港ドルとの交換は、日本政府が太平洋戦争の遂行にあたってとった国策であったことは明らかであり、軍票の交換行為自体は国の権力的作用に属する行為にほかならない。そうであるとすれば、国家賠償法附則六項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と規定しており、国家賠償法が施行されたのは昭和二二年(一九四七年)一〇月二七日であるから、それ以前に生じた原告ら主張の財産権侵害行為について被告に損害賠償責任が生じると解することはできない(最高裁昭和二五年四月一一日判決・裁判集民事三号二二五頁参照)。

(2) これに対し、原告らは、軍票の発行は占領地において国際法の認める権力行使の一内容として行われたのであり、これについては国際法、すなわちハーグ陸戦規則四二条ないし五六条または国際慣習法の規律の下にあるから、不法行為責任についてもハーグ陸戦規則または国際慣習法により規律されるのであって、国内法の国家無答責の原則の適用はないと主張する。しかし、このような原告らの主張は、ハーグ陸戦条約三条がハーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人に加害国に対する直接の損害賠償請求権を付与したものであることを前提にしているものであって、このような前提が採用できないことは既に述べたとおりである。

(二) 敗戦時の軍票精算放置

原告らは、昭和二〇年(一九四五年)八月一四日の無条件降伏により、被告は直ちに軍票全額を日本通貨(日本銀行券)に換金する義務が生じたにもかかわらず、あえてこの義務を履行せずに放置したのであるから、被告は、民法七〇九条及び国家賠償法一条一項に基づき損害を賠償する義務があると主張する。

しかし、日本が無条件降伏をしたからといって、そのことから被告に軍票を換金する法的義務が新たに生じたと解することはできない。したがって、原告らの右主張は採用できない。

(三) 大蔵省による無効、無価値声明による精算義務の放置

原告らは、本件覚書に基づいて大蔵省が大蔵省声明を発して軍票の流通上の効果を否定したことにより、軍票を同額の日本通貨に換金する義務が生じたにもかかわらず、右換金行為をまったく行わず放置して、原告らの財産権を侵害したのであるから、被告は、民法七〇九条に基づき、原告らに生じた財産的損害を賠償する義務があると主張する。

しかし、前述のとおり、軍票は、本件覚書を受けた大蔵省声明により、一切が無効かつ無価値になったものと言わざるを得ないのであり、大蔵省声明を発することによって、新たに被告に軍票を同額の日本通貨に換金する法的義務が発生したと解することはできない。

(四) 日本国独立時の精算義務の放置

原告らは、日本は平和条約の発効により独立国として軍票換金義務を果たす能力が生じたにもかかわらず、右義務を履行せずに放置したことによって原告らの財産権を侵害したのであるから、被告は、国家賠償法一条一項により原告らの財産的損害を賠償する義務があると主張する。

しかし、日本が平和条約の発効によって独立国となったとしても、そのことから、被告に軍票を日本円に換金する法的義務が新たに生じたと解することはできない。

(五) 被告の不法行為責任の有無に関する結論

以上検討したところによれば、日本軍が香港において香港ドルと軍票の交換を行った行為は国の権力的作用に属する行為であって、その行為自体の違法を理由とする不法行為責任を問うことはできないと言わざるを得ないし、その余の不法行為責任に関する主張については、原告らの主張するような精算義務自体の存在を認めることはできないから、結局、原告らの主張する民法七〇九条あるいは国家賠償法一条一項を根拠とする損害賠償の請求は理由がないというべきである。

第七結論

以上の次第であって、ハーグ陸戦条約三条を根拠として原告らの被告に対する損害賠償請求権を認めることはできないし、原告らの主張する債務不履行あるいは不法行為を理由とする損害賠償についても、現行の法体系のもとでの実体法上の損害賠償請求権として構成する余地はないと言わざるを得ない。

よって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がないから、これらを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 西岡清一郎 見米正 武藤貴明)

(別紙一)当事者目録<略>

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